2013年10月4日金曜日

33−瞑想とプロポーズ


1982年、私は再びスイスへ戻って来た。
チューリッヒ空港でペーターが私を待っていてくれた。私にはもうラブラブな感情はなかったが、久しぶりに彼の顔を見て、やはり嬉しかった。
彼は以前にも増して優しく私を迎えてくれた。
空港を出て、スイスの地に足をつけた私は、「ただいま」と胸の中でつぶやいた。
私たちは空港から列車に乗り、15分ほどでWinterthur(ウインターテゥール)という大きな町に着いた。そこから更に10分ほどバスに乗り、到着したのは静かな郊外の住宅地だった。 
今までいつも二人で片田舎にある農家に住んでいた。今度はどんな家で暮らすのだろうと思っていたら、ペーターが案内してくれたのは2階建てのアパートの一室だったので驚いた。
私の為に用意をしたらしく、アパートの中には最小限だが必要なものが全て揃っていた。
そして、安定した収入を得る為に、彼は警備員の仕事を見つけていた。
今までのペーターとは、がらりと雰囲気が変わっていた。
「一度離婚の経験があるので君とは結婚できない、家族を持つなんてガラではない、社会に縛られずに自由奔放に生きたい」そう言い続けてきたペーターが、今回はこのスイスの住宅地で私と家族を持ちたいと言った。
どんな変化が彼に起こったのか私には見当もつかなかったが、生真面目な顔つきで近寄りがたかった彼の表情が和らぎ、冗談を言っては少年のような目で笑う彼を見るのは素直に嬉しかった。

ペーターの警備員の仕事は日中もあれば夜もあった。真面目に仕事へ出かけて行くペーターを見る度に私は不思議な気持ちでいたが、その変化がどこから来ているのか、間もなく分かった。
ペーターは時間を見つけては隣町にある瞑想センターに通っていたのである。バスに乗って電車に乗り換え、可能な限り通っていた。
私にも一緒に来ないかと誘ってくれたが、私は瞑想センターと聞いただけで変な宗教の集りではないかと恐れをなし、行かないと返事をした。
だが、毎回出かけて行く彼の後ろ姿を見ながら、彼をこんなに変えた瞑想とはどんなものだろうと、好奇心は日増しにわいてきた。
ついにある日、「私も一緒に行ってみる」と私は思い切ってペーターに言った。
口に出して言ってみると、今まで喉に引っかかっていた何かが急に取れたようでスッキリした。
実際の所、私は瞑想センターでどんなことが起こっているのかを知るよりも、瞑想によって自分の殻を壊され、隠れていた本当の自分の姿を見つけることの方が怖かったのだ。私は昔から、臆病な人だった。

「汗をかくから着替えと、そしてシャワーを浴びるからタオルを持って行くといいよ」
ペーターからアドバイスを受け、私は少し震えながら瞑想センターに向かった。
未知の事に挑戦するとき、何が起こるのか判らないという緊張感が高まり、恐怖にさえなる。
私たちは電車で隣町まで行き、そこから瞑想センターのある方向へ歩いて行った。
駅からさほど遠くないところに大きな建物があり、1階が郵便局で、その上に瞑想センターがあった。
私たちは郵便局の横の階段を上り、瞑想センターの正面にたどり着いた。
私がセンターのドアを押してみると、中は想像以上に明るくて、瞑想センターというよりも、どこにでもあるスポーツクラブのような雰囲気で、私は少しホッとした。
私たちは先ずカウンターで料金を支払い、その後、それぞれの更衣室に入って着替えをした。
瞑想センターでは時間ごとに瞑想の種類が異なり、私たちが通った午後の時間帯は、クンダリーニという半分アクゲィブ、半分静寂な1時間の瞑想が行われていた。
瞑想は、日本人がよく知っている座禅という静かな瞑想からアクティブな瞑想まで約100種類はあるそうだ。
ヨーロッパでは、最初から座禅が出来る人は少ないようで、先ずはアクティブな瞑想で心身のテンションを除き、それから座って静かな境地に入る、という方法がセンターにやってくるメンバー達にも好まれていた。
1時間好きなように踊る、という瞑想方法もあった。ただただ、音楽に合わせて身体の中から突き上げるエネルギーで踊るだけの瞑想だ。時には激しく、時には静かに流れる音楽に合わせて躍る。ディスコ風でもなく、クラシック風でもない、どちらかと言うとアフリカンダンスのような動きになる。45分間踊った後は15分間の座禅をして気持ちを落ち着かせる。この瞑想は誰にでも人気があった。
私がもう一つ好きだったのは、クンダリーニメディテーションである。
両足を肩幅に開いて膝の力を抜き、足の底に感じるリズムに合わせて15分間身体を蛇のようにくねらせる。そうやって身体の中のテンションを出した後、次の15分間はダンスだ。力強いドラムの音に合わせて身体が動く。そして次の15分間は座禅の姿勢で床に座り、息を整え気持ちを落ち着かせる。最後の15分間で床に身体を横たえて自分の内を観る。私はこの瞑想が大好きで、1ヶ月間、毎日続けた。
「瞑想」という言葉は知っていたが、自分でやってみるのは生まれて初めてだった。瞑想センターには恐る恐る行った私だが、いつの間にか自分から進んでいくようになっていた。
私の心は日増しに軽くなっていった。

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2013年7月5日金曜日

20−スペイン自転車旅行


スイスとドイツ国境近くの田舎の生活は毎日静かに過ぎていく。とても平和で、少し退屈で。
そんなある日、突然ペーターからスペイン行きの話が出た。
どこからそんなアイデアが浮かんできたのか知らないが、今度は全く知人も居ない未知の国へ行くという。旅行ではなく、スペインに行って住む家を探し、そこで絵を描いて生活しようとペーターは言った
突拍子もない話だが、これは私がスイスに長期滞在出来ない為に彼が考えだした対策であることは明らだったので、私は直ぐに話に乗った。田舎町の生活に退屈していることも後押しをした。
驚いたのは、スペインには自転車で行くという彼のアイデアだった。
あの、広い、広い、バカでっかい面積のスペインを自転車で回る
考えただけで頭がくらくらしたが、まぁ、こんな冒険も今だからできるのだと思い、私は賛成した。
とにかく私たちには時間だけはたっぷりあるのだ。

スペイン自転車旅行は、先ずは自転車を買うことから始まった。新品は高すぎて買えない私たちは、新聞広告でセカンドハンドの自転車を見つけ、その持ち主が住む遠い郊外までバスを乗り継いで買いに行った。
あの当時の自転車にはギアーが3つしかついていなかった。
長い旅行中はホテルなどに泊まれるはずもなく、私たちは品質がいいスイス軍の寝袋を購入した。ダウンの本体と、それをすっぽり包み込むナイロンのカバーが付いており、小さい私が二人は入れそうな、大きく、しっかりした、カーキー色の寝袋だった。
その他に、自転車後輪の両脇に付けるバッグ、水筒、キャンピングセット、レインコート、そして勿論スイスのアーミーナイフもスイス軍で調達した。
中立国と言っているスイスには徴兵制度があり、男性は18歳になると兵役を務められるかどうかの身体検査がある。その検査を通ると20歳で初めての訓練があり、そして軍隊個人装備一式が支給される。だからスイスのどの家にも銃があり、同時に、必要な物はいつでも軍で購入出来るようになっている。
持っていく着替えなどを最小限にしても、私たちの自転車に積む荷物はかなりの量になった。それを自転車の後ろに積むと、その重さで前輪が浮いてしかたがなかった。
自転車にはもう何年も乗っていなかった私は、こんなに重い荷物を積んだ自転車を操作できるのだろうかと不安になった

いよいよ出発の日。
私たちはフランスとスペインの国境にあるペルピニオンの町へ向けて自転車と共に夜行列車に乗った。
夕暮れ時の列車を私は好きになれない。コトコトと走る列車の窓の外にオレンジの光を灯した家が流れて行くと、私は暖かい家庭で過ごした子供時代を思いだして、なぜかメランコリックになる。
特にこうして住む場所を探す旅に出ている時に見た闇の風景は、私の心の奥まで暗くした。

翌朝、長い列車の旅を終えた私たちは、太陽の輝く中、ペルピニオンの構内に降り立った。構内はラテンの匂いがした。
ペルピニオンの駅前は賑やかな商店街で、人や車がひっきりなしに通っている。あの賑やかな通りの中を、この重い自転車を漕いで通り抜けなければいけないのかと思うと、私は尻込みした。
真っ直ぐに持つだけでも大変な自転車なのに、その上に乗って両足でペダルを漕ぐなんて、まるでサーカスではないか。
案の定、構内を出かかったところで私の自転車の前輪が浮かび上がり私をオロオロさせた。
長身のペーターは慣れたもので、スイスイと自転車を漕いでいく。見失っては大変と、私も自転車にかろうじて乗り、あちらにヨロヨロ、こちらにヨロヨロしながら前進していった。
町を出ると直ぐに郊外が広がり私をホッとさせたが、それもつかの間だった。私たちが走っているアスファルトの細い路を大型トラックが勢いよく走り、その度に、路の脇を走っている私の自転車を大きく揺らし、私に冷や汗をかかせた。
一度は、トラックが私の帽子を吹き飛ばしたこともある。私たちのスペイン旅行の始まり、始まりである。

私たちは毎日スペインの田舎道をギーコ、ギーコと自転車を漕いで行った。途中で小さな町に出くわすと、そこでパンや食材を買い込む。それから又ギーコ、ギーコと漕いで、夕方近くになると町外れの雑木林や人気のない静かな場所を探して寝床を作った。
寝床が出来ると、先ずはその側でコンロに火を焚いて簡単な夕食である。インスタントスープとパンの日が多かったが、時々パスタを茹でてインスタントソースと共に食べることもあり、それは大変なごちそうであった。
私たちはパン屋が存在しない小さな町にも出くわした。パン屋がなくて住民達はどうするのかと思ったら、そういう町には毎朝パン屋が車でパンを運んでくるらしい。
そんな小さな町に通りかかると、私たちはパンのかけらさえ目にする事ができなかった。
パンが手に入らないと、その日の夕食と翌朝の朝食には主食がないことになるが、別にそれでお腹がすいて困る事はなかった。
食事が終わって周りが薄暗くなってくると、私たちは寝袋を開いて滑り込んだ。

最初の頃は誰かが襲ってくるのではないかと外で寝るのが怖かったが、それもその内に慣れてしまった。というか、私たちは1日の自転車漕ぎの疲れで寝袋に入ると瞬く間に眠りに落ちてしまった。

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2013年4月4日木曜日

7−戦争のない国スイス



格安でスイスへ向かおうと思った私は、ロシア航空会社のアエロフロートを利用した。
その日は雨だった。雨脚が次第に強くなり、飛行機は伊丹空港で足止めになった。
外国へ行くな!とでも言っているのかな、と私はふと思った。
古い飛行機の座席に座りながら私が手持ち無沙汰でいると、横にも縦にも体格のいいロシアのおばさん風スチュワーデスが飴を配って来た。
笑顔も何もない、無愛想な女性だった。配られた飴を食べようと紙を剥がしにかかると、古い飴だったのか、紙が飴にくっついて剥がせなかった。
なんとかして紙を剥がし、飴を口の中でころころしながら舐めていると、窓際から風がスーッと入ってくるのに気がついた。これで標高何千メートルも飛んだら危ないのじゃないだろうかと心配になり、私は先ほどのおばさんスチュワーデスを呼んだ
ところがおばさんスチュワーデスは窓際をチラッと見ると、「ああ、大丈夫、大丈夫」と言って、さっさと行ってしまった。
しばらくすると、今度は別の乗客が窓から雨が漏ってきている騒ぎ出した。
私も行って見てみたが、かなりの雨が入り込んでい
先ほどのおばさんスチュワーデスが騒ぎを聞いたらしく、手に紙を持ってやってきた。そして、窓から漏れている雨水をチョイ、チョイと持って来た紙で拭くと、「ノー・プロブレム!」と無表情だが強い口調で言い行ってしまった。
安いだけあって、やっぱり飛行機、古いわーー!」
結局、2時間遅れで出発したアエロフロートは、しかし空気漏れや雨漏りにびくともせず、無事に我々をモスクワに運んでくれた。
だが、そこで問題が生じた。大阪からの便が遅れたばかりに、モスクワからスイスへ行く乗り換え便が既に出てしまっていたのである。
さぁ、どうしよう。次はいつの便があるのだろう
スイス空港ではペーターが私を待っている。彼に私が遅れて到着する事を伝えたい。
私の英語はまだ達者ではなかったが、そんなことを言っている場合ではなかった。
私はインフォメーション・オフィスを探しに空港内をり出した
幸いに直ぐに見つかり、カウンターにいる女性に尋ねた。
「こういう事情で私の乗る飛行機は出てしまいました。次の便はいつ出るのですか?」
「ここでは分かりません。2階のインフォメーション・オフィスで訊いてください」
カウンターの女性にそう言われた私は一気に階段を駆け上り、2階のインフォメーション・オフィスへ向かった。そして、先ほどと同じ事を尋ねた。すると、
「ここでは分かりません。1階のインフォメーション・オフィスへ行ってください」
と言う。
「えっ!今、1階で、2階へ行けと言われたので来たのですが」
「いいえ、ここではありません。1階へ行ってください」
女性は無表情で、有無を言わせない。
私は上ってきた階段を駆け足で下りて行き、先ほどのインフォメーション・オフィスへ急いだ。
少し息切れのする声で言った。
「今、2階へ行ったのですが、2階の人は、1階で訊けと言うのですが」
「いえ、いえ、先ほど言ったように2階です」
「でも、2階の人は、下で訊けと・・・」
インフォメーション・オフィスの女性は、ただ頭を横にふり続けるだけだった。
私は言われた通りに、再度、2階へ行くしか手段がなかった。今度は、トボトボと2階へ上って行った。先ほど行ったインフォメーション・オフィスへ向かって行きながら、何処でちゃんとした答えがもらえるのだろう、と不安になった。
2階のインフォメーション・オフィスでも、やはり先ほどと同じ答えが帰って来た。
この空港はどうなっているんだ。私は、どうしたらいいんだろう・・・?
もう、私には1階へ降りて行く元気もなかった。ただ、スイス空港で待っているはずのペーターにだけは、どうにかして連絡をつけたかった。
1階も駄目、2階も駄目、今度は何処へ行ってみようかと思案をしている時であった。
救いの天使が私の前に現れた。
大阪からの同じ便に、若い女性達の日本人音楽会グループが乗っていたらしく、そのグループの唯一男性であるリーダーが、私に話しかけてきてくれた。
「僕たちも大阪からスイスへ行く乗り継ぎ便に乗り遅れたのです。どうも、次の便は明日出るらしいですよ。それで、今晩は提供されたホテルに宿泊するらしいです。ご一緒にいらっしゃったらいいと思いますよ」
そうして、この男性はテキパキとインフォメーション・オフィスの女性に話しをし、私の宿泊を手配してくれた。
ほぉぉぉ、助かったぁぁぁ!」
こんな遠いロシアの国一人、どうなる事かと思ったが、どうにかなった。
宿泊先のホテルまで、私たちはバスに乗せられた。
バスに乗ったら絶対に写真を撮らない事、外もあまり見ない事、などと運転手に言われて、これがロシアと緊張した。
走っている最中、窓にかかるカーテンの隙間から少しだけ外が見えた外の風景は殺風景で、時折、道の端に止めた荷台に数本の人参と数個のジャガイモを乗せて売っている女性が見えた。風景も人びとも、とても貧しく見えた。
やっと古びたホテルに到着し私達は、4人ずつに別れて部屋に入った
もう夕方も遅かった。直ぐに夕食にしようと皆でホテルのレストランに向かったが、「遅いので何もない」とキッチンの人たちに愛想もなく言われた。
何でもいいので」とお願いすると、焦げ茶色のスープに何かがごろんと入っ正体不明なものが提供された。私は食欲を失くし、ほとんど手を付けなかった。
部屋へ戻りシャワーでも浴びようと思ったら、浴室のお湯が出なかった。なにもかも「貧しいロシア」であった。
唯一ホテル部屋の窓一杯に見えた、真っ赤に燃える夕日の美しさには感激した。
翌朝、私たちはホテル前から出るバスに乗り込んで空港へ向かった。
そして一日遅れの乗り継ぎ便に乗り、私も音楽会の人たちも無事にスイスへ到着した。
遅れて到着する事をペーターに連絡出来ずにいた私だが、彼はちゃんと到着出口で待っていてくれた。
前日、到着時間になっても私が現れない、ペーターが空港のカウンターで問い合わせをした所、「雨の事情で乗れなかったお客様が出ましたが、次の日のこの時間に到着します」と情報を得たらしい。スイスは、こういうところが几帳面なので助かる。

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