2013年7月5日金曜日

20−スペイン自転車旅行


スイスとドイツ国境近くの田舎の生活は毎日静かに過ぎていく。とても平和で、少し退屈で。
そんなある日、突然ペーターからスペイン行きの話が出た。
どこからそんなアイデアが浮かんできたのか知らないが、今度は全く知人も居ない未知の国へ行くという。旅行ではなく、スペインに行って住む家を探し、そこで絵を描いて生活しようとペーターは言った
突拍子もない話だが、これは私がスイスに長期滞在出来ない為に彼が考えだした対策であることは明らだったので、私は直ぐに話に乗った。田舎町の生活に退屈していることも後押しをした。
驚いたのは、スペインには自転車で行くという彼のアイデアだった。
あの、広い、広い、バカでっかい面積のスペインを自転車で回る
考えただけで頭がくらくらしたが、まぁ、こんな冒険も今だからできるのだと思い、私は賛成した。
とにかく私たちには時間だけはたっぷりあるのだ。

スペイン自転車旅行は、先ずは自転車を買うことから始まった。新品は高すぎて買えない私たちは、新聞広告でセカンドハンドの自転車を見つけ、その持ち主が住む遠い郊外までバスを乗り継いで買いに行った。
あの当時の自転車にはギアーが3つしかついていなかった。
長い旅行中はホテルなどに泊まれるはずもなく、私たちは品質がいいスイス軍の寝袋を購入した。ダウンの本体と、それをすっぽり包み込むナイロンのカバーが付いており、小さい私が二人は入れそうな、大きく、しっかりした、カーキー色の寝袋だった。
その他に、自転車後輪の両脇に付けるバッグ、水筒、キャンピングセット、レインコート、そして勿論スイスのアーミーナイフもスイス軍で調達した。
中立国と言っているスイスには徴兵制度があり、男性は18歳になると兵役を務められるかどうかの身体検査がある。その検査を通ると20歳で初めての訓練があり、そして軍隊個人装備一式が支給される。だからスイスのどの家にも銃があり、同時に、必要な物はいつでも軍で購入出来るようになっている。
持っていく着替えなどを最小限にしても、私たちの自転車に積む荷物はかなりの量になった。それを自転車の後ろに積むと、その重さで前輪が浮いてしかたがなかった。
自転車にはもう何年も乗っていなかった私は、こんなに重い荷物を積んだ自転車を操作できるのだろうかと不安になった

いよいよ出発の日。
私たちはフランスとスペインの国境にあるペルピニオンの町へ向けて自転車と共に夜行列車に乗った。
夕暮れ時の列車を私は好きになれない。コトコトと走る列車の窓の外にオレンジの光を灯した家が流れて行くと、私は暖かい家庭で過ごした子供時代を思いだして、なぜかメランコリックになる。
特にこうして住む場所を探す旅に出ている時に見た闇の風景は、私の心の奥まで暗くした。

翌朝、長い列車の旅を終えた私たちは、太陽の輝く中、ペルピニオンの構内に降り立った。構内はラテンの匂いがした。
ペルピニオンの駅前は賑やかな商店街で、人や車がひっきりなしに通っている。あの賑やかな通りの中を、この重い自転車を漕いで通り抜けなければいけないのかと思うと、私は尻込みした。
真っ直ぐに持つだけでも大変な自転車なのに、その上に乗って両足でペダルを漕ぐなんて、まるでサーカスではないか。
案の定、構内を出かかったところで私の自転車の前輪が浮かび上がり私をオロオロさせた。
長身のペーターは慣れたもので、スイスイと自転車を漕いでいく。見失っては大変と、私も自転車にかろうじて乗り、あちらにヨロヨロ、こちらにヨロヨロしながら前進していった。
町を出ると直ぐに郊外が広がり私をホッとさせたが、それもつかの間だった。私たちが走っているアスファルトの細い路を大型トラックが勢いよく走り、その度に、路の脇を走っている私の自転車を大きく揺らし、私に冷や汗をかかせた。
一度は、トラックが私の帽子を吹き飛ばしたこともある。私たちのスペイン旅行の始まり、始まりである。

私たちは毎日スペインの田舎道をギーコ、ギーコと自転車を漕いで行った。途中で小さな町に出くわすと、そこでパンや食材を買い込む。それから又ギーコ、ギーコと漕いで、夕方近くになると町外れの雑木林や人気のない静かな場所を探して寝床を作った。
寝床が出来ると、先ずはその側でコンロに火を焚いて簡単な夕食である。インスタントスープとパンの日が多かったが、時々パスタを茹でてインスタントソースと共に食べることもあり、それは大変なごちそうであった。
私たちはパン屋が存在しない小さな町にも出くわした。パン屋がなくて住民達はどうするのかと思ったら、そういう町には毎朝パン屋が車でパンを運んでくるらしい。
そんな小さな町に通りかかると、私たちはパンのかけらさえ目にする事ができなかった。
パンが手に入らないと、その日の夕食と翌朝の朝食には主食がないことになるが、別にそれでお腹がすいて困る事はなかった。
食事が終わって周りが薄暗くなってくると、私たちは寝袋を開いて滑り込んだ。

最初の頃は誰かが襲ってくるのではないかと外で寝るのが怖かったが、それもその内に慣れてしまった。というか、私たちは1日の自転車漕ぎの疲れで寝袋に入ると瞬く間に眠りに落ちてしまった。

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