2013年3月1日金曜日

2ー白い雲のように、その2


私は一人娘で、2歳違いの弟がいた。いつも両親から「お姉ちゃんなのだから、しっかりしなさい」、「お姉ちゃんなのだから、お行儀良くしなさい」と言われながら育った。それが私の中に深く浸透してしまったのか、どこへ行ってもお行儀のいいお嬢ちゃんで通すようになった。
学生の頃も、銀行に勤めだしても、夜遊びなど殆どした事がない。
今考えると、何とももったいない事をしたものだと思うが、両親を心配させたくないと思う、いいお嬢ちゃんぶりが、いつも何処かで顔を出していたのだ。
そして遊んだ経験がない私は、23歳の歳になっても自分がどんなことをしたいのか、自分はどんなことが好きなのか、全く理解できないでいた。ひたすら、人形のよう何も考えずに毎日を生きていた。

そんな私が、ある週末に神戸から実家に帰って、「私、アメリカに行く!」と突然伝えたのだから、どれだけ母をびっくり仰天させたことだろう。
私の中で眠っていた冒険心がペーターに出会ったことで突然爆発し、その炎はメラメラと燃え上がり、どんどん大きくなるばかりであった。自分で自分が信じられなかった。こんな力が、一体何処に隠れていたのだろう
私はもう自分を止めることができなかった
巷では、サンタナの「ブラックマジックウーマン」の曲が流行っていた。

アメリカに行きたいという件は、仲が良かった母には言い易かったが、父には母から伝えてもらうことにした。
そして、明治最後の年に生まれた父は大反対をした。
それはそうだろう、23年間大事に育ててきた一人娘が見知らぬ男にくっついてアメリカまで行くというのだから、何処の父親だって反対するだろう。
ペーターに一度会ってもらったらきっと父の考えも変わるだろう、彼に我が家まで来てもらったことがある
ところが、父は部屋胡座をかいて座り、断固として彼を家に入れるなと言い張った。
「わしは白人が嫌いじゃ」とまで言っ
父は第2次世界大戦で中国大陸へ出征し、戦後はシベリアに拘留された経験があるので、白人と聞けばと思うのも無理はないのかもしれないが、戦争が終わってもう20数年が経つのだ、それを今言われても・・・・・
私は、父の前に土下座をして、「どうぞ会ってください」とお願いしたが駄目だった。
それに比べると、女は男よりも柔軟である。母は外に佇んでいるペーターの所へ出てきてくれ、言葉が通じないのに、「娘のことをお願いしますと一生懸命ジェスチャーで伝えていた。
180cmある彼の前に150cmもない小柄な母が立っている姿は滑稽だったが、彼女の勇気ある姿に私は感動した。

それでもこの日を境に両親は私のアメリカ行きを納得してくれた事になり、それから私はアメリカ行きのビザ取得に走り回った。
アメリカ領事館は、神戸にあった。神戸から大阪に住む両親の家に帰っていた私は、何度、領事館に足を運んだことだろう
行く度にこの書類が足ない、あれが足ないと言われ、何度もがっかりさせられた。一度は閉館時間1分後に到着してしまい、どんなにお願いしても門を開けてもらえなかったこともある。
しかし、ビザが貰えなかった一番の理由は、私が片道航空券しか手配していないことであった。
「観光ではなく、あちらにいる知り合いの所に長期間滞在するつもりなので、片道航空券しか必要ないのですと説明すると、「それでは、滞在と帰国費用に見合う預金がある銀行通帳を見せてください」と言われた。
私は銀行勤めをしていたけれど、今から40年ほど前に女性に支払われた給料は知れており、ほどほどに買い物も好きだった私は、領事館が指定する預金額は持っていなかった。
とにかく、アメリカでの就労は認めないと言うのが領事館の立場で、アメリカに行っても十分滞在出来るだけの費用を持っている事を証明しなければいけなかったのである。
さぁ、どうしよう。
往復航空券は買いたくないし、銀行通帳の金額も足ない。これでは何度領事館に足を運んでもビザは貰えない。なす術もなく、私は既にアメリカへ行っていたペーターに手紙を出して事情を伝えた
返事を待つ間、私の口から出るのはため息ばかり。ビザ収得が難しいと、めそめそ泣いていると「そんなに泣くなら行かなければいい」と母も泣き出した。
アメリカ行きを応援してくれていた母だが、きっとこれが本音だったのだろう。
だが、その言葉が私には反ってバネになり、絶対ビザをとってアメリカに行くんだ自分に誓った。
それから2週間ほど経ったある日、「この日の、この時間にアメリカ領事館に行くように」とペーターから連絡が入った。何が起こるのか予想もつかなかったが、何かの進展があるようで嬉しかった。
指定された日、不安と期待で一杯の胸を抱えて、神戸の領事館までの長い道のりを電車に揺られていった。
神戸の領事館に入り、私の番を待っているとカウンターから私の名前が呼ばれて奥の部屋に入るように言われた。なんだろうとドキドキしながら入ってみると、テーブルの向こう側に館長が座っていた。
緊張しながら、勧められた椅子に座ると、彼がじっと私の顔を見て、こう言った。
「実はスイス領事館の館長から連絡があり、あなたにビザを出すようになりました」
私は座っているイスから転げ落ちそうになった。
ほーーーっ、今までの努力が実ったぁ・・・
後で分かったことだが、神戸にあるスイス領事館の館長をペーターは良く知っており(私も一度、ペーターと一緒に館長の家へ食事に招待された事がある)、その彼に私の事情を話した所、その館長からアメリカ領事館の館長に連絡が入ったらしい。
私がビザを取ろうと決めたときから、既に1ヶ月ほどが経っていた。

ビザを貰ってからは、早かった。手配していた航空券を購入し、あっという間に出発の日になった。
紹介しようと連れて行ったペーターに会ってくれなかった父は、それでも私を空港まで見送りにきてくれた。
私を一番可愛がってくれた父。どこの誰とも分からない人のところへ飛び立とうとしている一人娘を見送るのだ。きっと心配で心配で、胸が張り裂けそうだったに違いない。
だって家族との別れは寂しかった。でも、これから見るであろう新しい世界への期待感、嬉しさの方が何倍も大きくて、なんだか雲の上にいるような気分だった
私が出国手続きを終えて搭乗前の待合室に入るまで、みんな笑顔でさようならをしてくれたが、見送りゲートに移動したとき、父は私の乗った飛行機が遠くに飛び去り見えなくなるまでゲートの手すりを強く握りしめて泣いていた、とずっと後になって弟が教えてくれた。
 そんな事は夢にも思わず、私は初めて乗ったJAL興奮して座っていた。
機内食が出て、日本食がいいか、洋食がいいか、と訊かれて、しばらく日本食は食べられないだろと思、日本食にした事を覚えている。小さな蕎がつけとともに出てきて、機内食なのに、なんて粋な事をするんだろうと初めて乗った飛行機の中で感動したことを覚えている
1973年の7月、1ドルが360円の時だった。

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